文化遺産の紹介
昌徳宮の紹介・歴史
昌徳宮は1405年(太宗5年)に法宮(正宮) である景福宮の離宮として創建された。
1406年(太宗6年)に昌徳宮の北側に後苑を造成し、1463年(世祖9年)に後苑の規模を拡大して、政治空間と生活空間の調和を図った。昌徳宮は1592年(宣祖25年)に壬辰倭乱(文禄の役)の際に焼失したが、1610年(光海君2年)に宮殿のうち最初に再建された。それ以来、1867年に景福宮が再建されるまでの約270年間、歴代王の多くは昌徳宮の方をより頻繁に使用していたため、事実上の法宮(正宮)の役割を果たした。仁祖代から純祖代にいたるまで、玉流川、奎章閣、宙合楼、愛蓮池、倚斗閤、演慶堂などが建てられ、1847年(憲宗13年)には楽善斎区域が造成されるなど、昌徳宮の範囲は次第に広がっていった。

昌徳宮は昌慶宮との境界がなく「東闕」という別名で呼ばれていた。他の宮殿に比べて人工的な構造に従わず、周辺の地形と調和するよう自然に沿って建てられたことから、最も韓国的な宮殿と評価されている。

特に、大韓帝国2代皇帝の純宗は即位してから昌徳宮で暮らし、ここで生涯を終えた。大造殿の付属建物である興福軒は1910年に庚戌国恥(大韓帝国が日本に統治権を奪われたこと)が決定された悲運の場所でもある。植民地支配からの解放後、大韓帝国最後の皇室家族(純宗の皇后である純貞皇后、懿愍皇太子妃(李方子女史)、徳恵翁主)が生活し、生涯を終えた場所でもある。

歴史
区分内容 詳細
1405年(太宗5年)
景福宮の離宮として創建
1406年(太宗6年)
後苑を造成
1463年(世祖9年)
後苑を拡張する
1592年(宣祖25年)
文禄・慶長の役により焼失
1610年(光海君2年)
宮殿のうち最初に再建
1623年(仁祖1年)
仁祖反正によりほとんどの殿閣 が焼失
1636年(仁祖14年)
後苑を拡張する
1647年(仁祖25年)
宣政殿、大造殿、熙政堂などを再建
1704年(粛宗30年)
後苑に大報壇を建てる
1776年(正祖即位)
芙蓉池一帯に宙合楼と奎章閣を建てる
1828年(純祖28年)
愛蓮池一帯に演慶堂を建てる
1847年(憲宗13年)
楽善堂があった跡に楽善斎を建てる
1910年(隆熙4年)
興福軒で庚戌国恥が決定
1917年
大火災で寢殿区域(大造殿と熙政堂)が焼失
1920年
景福宮の康寧殿と交泰殿を移して寢殿を再建
1960年
純宗の2番目の皇后である純貞皇后が宮殿に戻る
1989年
徳恵翁主、懿愍皇太子妃が世を去る
1990年~
復元工事を開始
1997年
ユネスコ世界遺産登録