文化遺産の紹介
景福宮の紹介・歴史
景福宮は1392年朝鮮を新たに興し建てたあと、
1395年(太祖4年)に創建した朝鮮王朝の第一法宮である。
白岳山(今の北岳山)を主山とする広い地形に建物が配置され、正門である光化門の前に広々とした六曹街が広がる、漢陽の中心地であった。「景福」には「新しい王朝が大きな福を授かり繁栄する」という意味が込められており、世宗の代にはここで創製した訓民正音(ハングル)が 頒布 された。

景福宮は1592年(宣祖25年)文禄・慶長の役の際に焼失したが 、その後も復旧されず、約270年後の1867年(高宗4年)に再建された。高宗の代になってはじめて乾清宮と泰元殿、集玉斎などが建てられ、特に乾清宮の玉壺楼は1895年の乙未事変の当時、明成皇后が殺害された悲運の歴史の場所 でもある。

1910年の植民地化の後、景福宮の計画的な毀損が行われ、1915年に朝鮮物産共進会を催すという名分で多くの殿閣が撤去された。1926年には朝鮮総督府の庁舎が建てられ、景福宮の景観が損なわれるようになった。1990年代から本格的に景福宮の復元工事が進められ、1997年には朝鮮総督府庁舎の撤去、興禮 門一帯、寝殿区域、乾清宮と泰元殿、そして光化門などが復元され現在に至っている。
歴史
区分内容 詳細
1395年(太祖4年)
景福宮を創建
1426年(世宗8年)
光化門、建春門、迎秋門を建築
1446年(世宗28年)
訓民正音を頒布
1475年(成宗6年)
北門の名を神武門に変更
1592年(宣祖25年)
文禄・慶長の役により焼失
1865年(高宗2年)
再建開始
1867年(高宗4年)
再建完了
1873年(高宗10年)
乾清宮を建築
1895年(高宗32年)
乾清宮の玉壺楼で乙未事変が起き、 明成皇后が日本軍により殺害される
1896年(高宗33年)
高宗が居所をロシア公使館に移す
1915年
朝鮮物産共進会の開催で殿閣撤去
1926年
朝鮮総督府庁舎を建築
1990年~
復元工事を開始
1994年~
康寧殿‧交泰殿一帯の復元
1996年
朝鮮総督府庁舎を撤去(~1997年)
2001年~2021年
興禮門一帯、光化門一帯、興福殿、醉香橋の復元および・香遠亭の補修
2023年
東宮内の繼 照堂の復元